秀岳館の監督の件、知床遊覧船の社長の件、そして、山口の給付金を返還しない若者の件。
こうも立て続けに、人間の嫌な部分を見せつけられると、日本人として恥ずかしくないんだろうかとすら思ってしまう。
日本人としてどうこうという表現を普段しないが、さすがにこれらの件にはそう思う。
日本人が忘れてはいけないのは、わびでもさびでもなく、「恥」だ。
何事にも言えることだが、恥を捨てられると大胆になれる。
恥ずかしくて引っ込み思案だった子供が、勇気を振り絞って前に出る、ある種恥を捨てた状態だ。
恥ずかしくて聞けない、目立つのが恥ずかしいなどの言葉を聞いて、イライラする人もいるだろう。
捨てていい恥は確かにある。
しかし、捨ててはいけない恥もある。
露出狂は、自分の性器や裸体を見せたくてやっている部分が大きい。
捨ててはいけない恥のわかりやすい例だ。
恥じらいがあるから裸になっていくさまで興奮するのに、開けっぴろげでは不愉快である。
捨てるべき恥はある、しかし、守るべき恥もある。
全ての恥を捨てた人間こそ、秀岳館の監督や知床遊覧船の社長、山口の、給付金を返還しない若者である。
たくさんのカメラの前でウソをついても恥ずかしいとは思わない。
明らかパフォーマンスな土下座、その後のめちゃくちゃな言い訳、これも恥ずかしいとは思わない。
同じコミュニティの人間に行き渡るべき金を受け取り、返そうともせず、逃げ回る、これも全ての恥を捨てた人間の所業である。
無敵の人は、失うものが何もない人を指す言葉であり、自分もそう思う。
ただ全ての恥を捨てた人間も、失うものが何もない人間と同じくらい無敵である。
「恥ずかしくないのか!」と面罵されても、「えぇ恥ずかしくありません」と言えるだろう。
そう言われたら、面罵した側がエキサイトして、結果的に割を食ってしまう。
悲しいかな、これらの「無敵の人」を厳正に処罰することは難しい。
韓国なら意地でも捕まえるだろうが、法治国家でなくてもいいやと恥を捨てるならそれでもいい。
ただ、日本ではそういうわけにはいかない。
元来の無敵な人は、施してあげればもしかすると無敵ではなくなるかもしれない。
しかし、全ての恥を捨てた「無敵の人」は、施せば増長するだけだ。
この新たな無敵の人を再教育するのは難しいのではないか。
もしかすればあるのかもしれないが、こんな人間たちのために恥をかくほど、暇ではない。