しょうもないことをして炎上する→個人情報が晒される→家族や学校などに電凸する人間が大量に出現する→退学や解雇などに追い込まれる→やりすぎではないかと疑問を呈する人が出てくる、これがネットでの炎上案件における1つの流れである。
不思議なことにこれから逸れることはまずなく、必ずこの流れの中で事態が進む。
最初から、「やりすぎになるかもしれないから自制的に」なんて言葉は聞かれない。
まずは炎上し、散々焼き尽くしてから、あれはやりすぎなんじゃないの?なんて声が聞かれる。
もはや様式美にも思えるが、今回のスシローペロペロ事件もまさにその流れにある。
そもそも、あれで怒らない方が異常であり、これだけの騒動になるだけの行為をしたのは事実である。
すると、こいつは許せない!という気持ちに多くの人がなるのも当然であり、その一部が暴走し、個人情報を晒す行為に発展していくのは割合的に避けられない。
あの動画で激怒した人のうち、1%の人間が暴走したとして、それが10万人なら1000人程度。
その1000人が競い合うように情報を掘り起こしたとすれば、あのような騒ぎになるのは仕方ない。
やりすぎる人間というのは、いつの時代にもどの場所にも少しはいるものだ。
やりすぎなのではないかという懸念はある種的外れであり、防ぎようがない。
本当に「やりすぎ」を防ぐのであれば、個人情報をむやみに掘り起こして晒すことを刑罰化するしかないだろう。
おそらくだが、そんな議論になれば、色々な自由を振りかざす人が出てくる。
早い話、「炎上されるようなことはするなよ」としか言いようがないのである。
もう1つ、なんで被害者でもないのにそんなに怒れるの?とこの件で激怒する人に疑問をぶつける人がいる。
簡単に言えば、あの動画を見てものすごく不快に感じた「被害者」なので、激怒する権利はあると考えている。
実害を与えられて被害者となるが、精神的に傷つけられたという実害を自覚して激しく怒っているからこそ、炎上に加担できるのだ。
そこで「関係ないじゃん」と思えるか、「不愉快だ!許せない!」と思えるか、それは自らに被害者意識が芽生えやすいかどうかにかかっていると自分は考える。
あの動画を見させられた被害者として振る舞い、そのすべてが正当防衛になる。
その多数の「被害者」たちにとって、許すラインなどは存在しない。
その少年がどうなろうが、一家が離散しようが、多数の被害者たちは許さないだろう。
許すも許さないもノリのようなものので、「これぐらいで許したるわ!」がないのだ。
例えば、真の被害者であるスシローからすれば、慰謝料などを請求し、賠償金を支払ってもらい、形式上は許したことになる。
実害がない多数の被害者たちは単に不快に思っただけなので、スカッとできればいい。
このスカっとするレベルは人によって様々だから、完全な解決なんてあるはずがない。
それが高校の退学でスカッとすれば、これ以上の炎上に対して「やりすぎじゃないの?」と思うかもしれない。
やりすぎじゃないの?と思い始めた人は、先に弁済を受けた「実害がない被害者」なのだろう。
醤油を吸うなど少年のやった行為は悪ふざけにも程があり、お灸は据えられるべきだろう。
スシローと話し合い、示談という形で裁判外で話を済ませ、その際にお金を支払う形で当事者間で解決を目指すしかない。
少年自身に対しては色々と更生する方法はあるだろうから、周囲の大人たちがいかに更生させるかを考え、本人は嫌々だったとしても、その流れに身を任せることが必要だろう。
少年時代に警察沙汰になるも、そこから改心した人は多い。
一方で警察沙汰から一気に道を踏み外していく人も少なくない。
この差は、周囲の大人たちの愛情やその少年を思う気持ちがあったかどうかではないだろうか。
ドラマ「北の国から」で純という人間は火の不始末で火災を引き起こしたり、女の子を中絶させたり、やってることは相当野蛮であり、勘当、絶縁を食らっても何ら不思議ではない。
しかし、父の黒板五郎を始め、周囲の人間が厳しくも温かく見守り、何とか人生を立て直すことができた。
もちろんフィクションなので、こううまくいくことは少ないだろう。
それでも、若い時にもしくじっても、巻き返すことができる社会の方が多くの人にとって生きやすいと感じる。
バイトテロの時も競い合うようにバイトテロが頻発したように、スシローペロペロ事件以降、お客のテロ的なことが頻発している。
断罪は必要であり賠償責任は負わせなければならない。
ただ責任を果たしてもらったら、あとは更生に向けて見守っていく必要がある。
炎上案件は私たちにとってのスナック菓子ではない。
大量消費社会を確かに生きているが、こうした案件まで大量消費するような社会になってはいけないのではないだろうか。