アメリカだと、トランプ氏を支持するとか、ハリス氏に頑張ってほしいとか、さまざまなアーティスト、俳優、スポーツ選手が政治色を鮮明にする。
それはアメリカがそういう文化にあるからで、日本がこれを目指すのは非常に難しい。
早い話が、「自分の意見を否定されること=自分のすべてを否定されること」になりやすいからだ。
意見と人格は切り離して考えるべきで、意見が異なるからといって人格まで否定する権利は一切ないはずだ。
しかし、その意見が生い立ち、体験などで構築されると、自分の意見が人格の一部になってしまう。
意見を否定されて、人格否定のごとくキレる人が少なくないのは、そういうことだ。
海外だとディベートの訓練がなされていて、意見と人格は切り離されやすい。
ディベートは自分の意見もしくは自分が毛嫌いする意見、それぞれの立場に強制的に立たされてその立場でいかに相手を任せるかが問われる。
例えば、根っからのアンチ巨人かつ筋金入りの阪神ファンであれば、ディベートにおいて、巨人が日本で最も優秀な野球チームという立場に立たされて、相手を説得せざるを得なくなる。
当人からすれば耐えがたい屈辱だが、相手の立場に立って議論をしていくとはそういうことだ。
その訓練ができている、もしくは当たり前に行っている人であれば、政治色を鮮明にしても特段問題はないと思う。
ここ数年で、政治色を鮮明にする芸能人が増えたと感じるが、異なる意見に柔軟だなと思う人をそんなに見かけない。
選挙の結果に対し、自身が応援する政党や思想信条が少数派となると、平気で「日本は終わった」など民意をバカにする意見をする人がいる。
大多数は無党派層、というよりも、半径数メートルの出来事で精一杯の人が大多数という時代である。
政治的な議論も「そんなヒマはねぇんだよ」と切り捨てる人ばかり。
ふわっとした民意とよく言われるが、いかにその民意をつかめるかが大事だし、「日本は終わった」なんて大上段から言われたら普通はカチンとくる。
その中で政治色を鮮明にするのはメリットがさほどない。
鮮明にするのであれば、異なる意見にも耳を傾けてアップデートできることが条件になる。
自分も色々な意見に触れる中で考えを改めることが多々ある。
それはブレではなく、多数の視点でチェックして分かり得たことだ。
右だろうが左だろうが、正しいことも間違っていることもある。
この立場の意見は100%正しい、すべて間違いというのはあり得ない。
理論的に考えれば正しくても感情的に突き通すのは厳しい意見もある。
感情的な意見はすべて醜いかといえば、決してそんなことはない。
自分自身が強く右寄り、強く左寄りの知り合いをそれぞれ抱えているから、比較的柔軟に考えたいと思う部分がある。
高校時代にそういう機会に恵まれたことで、自然と訓練を受けられていた。
見える世界は、立場によって異なる。
同じものを見ていても、何を思い、何を感じるかは180度変わるもので、それ自体は否定されるべきではない。
何度も言いたいが、政治色を鮮明にすること自体は一切悪くない。
ただ、異なる意見をぶつけられて耳を傾けられず、人格否定のように思うのであれば、政治色を鮮明にするメリットは一切ないと思うべきだろう。
一時的には、同じ意見の人に熱烈支持を受け、その意見を言い続けることで収入を得ることは可能だ。
でも、一切のブレが許されず、少しでも異なることを言えば、裏切り者扱いをされ、末代まで恨まれることもあるだろう。
面倒だからそんなことを表明したくないというのもある種正しい対応である。
意見を表明することは本来覚悟がいるし、どのような結果になっても腹を括るべきだ。
意見を言うとはそういうことだ。
まぁ「お気持ち表明」という表現は、「てめぇの意見なんか知らねぇよ」を皮肉った表現だから、政治色を鮮明にするのもある種の「お気持ち表明」と言われればそれまでか。
異なる意見に耳を傾けるのは、訓練を要することなのかもしれない。