長嶋茂雄が亡くなった。
人間には寿命があるので、どんなスターでも亡くなる。
そうはわかっていながらも、亡くなると悲しいものだ。
自分の世代が、元気でユーモラスな長嶋茂雄をリアルタイムで知っている最後の世代かもしれない。
学生の時に長嶋茂雄が脳梗塞で倒れてしまい、饒舌に喋る姿はほとんど見られなくなった。
アテネ五輪直前の3月に倒れてしまったのは今でも記憶に残っている。
2004年に倒れたので、20代の人で長嶋茂雄をリアルタイムで知るとなると、相当おぼろげな記憶となるし、数少ない。
20代の人は長嶋茂雄よりも長嶋一茂の方を知っていて、長嶋茂雄のことを知らない人も多いように思う。
分かりやすく一言で説明するなら、大谷翔平のようなスター性を持った選手。
今の若い人たちが大谷翔平を絶賛するように、昔の人たちは長嶋茂雄や王貞治を絶賛し、話題の中心はいつも巨人。
自分が子供の時ですらまだ巨人戦の地上波中継が一般的だった。
巨人が弱いと視聴率が落ちる、優勝すれば視聴率は上がると言われていた時である。
90年代ぐらいに横浜ファンになったので、長嶋茂雄監督の記憶が強い。
第2次政権では背番号33をつけ、99年のオフに広島の江藤智がFA移籍する際に背番号33を譲って、自らは背番号3となった。
2000年のシーズン、キャンプ入りしても、まだ肌寒いからか、グラウンドコートを着たまま。
いつ背番号3は見られるのかとファンもマスコミも注目する中、移籍した江藤に対してノックをする際、ついにグラウンドコートを脱ぎ、背番号3の姿を見せた。
それがいかにすごいか、子供だった自分でも何となくは理解した。
どこまで演出として決めていたかは知らないが、その手の演出には長けていたし、自然とそうなっていった。
サンマリンスタジアム宮崎の名付け親でもあるが、それも記者との会話の中で出た言葉。
厳密には宮崎県で愛称の公募を行っていて、その中から選んだ形にはなっているが、名誉命名者としての表彰を受けている。
正直、長嶋茂雄が監督として有能だったかどうかはわからない。
少なくとも当時は名将みたいなイメージを持っておらず、采配は批判されやすかったように思う。
FA制度や逆指名制度など、あらゆる手を使って巨人が選手をかき集める姿は当時から批判されやすく、父親がアンチ巨人だったこともあり、自分もそうなった。
ただ、アンチ巨人は実は巨人のことをよく知る存在でもあり、ある種のファンとも言われている。
今はアンチ巨人と呼べるほど、特段巨人を敵視しておらず、あまり情報は追えていない。
戸郷の初勝利に対して、よかったなぁと思うくらいである。
長嶋茂雄を悪く言う人はいない、でも、長嶋茂雄に嫉妬した人は山ほどいると思う。
嫉妬と憧れは表裏一体だと思っているが、長嶋茂雄に対する嫉妬は、憧れがかなり強めで到底マネできないからこその嫉妬であり、そういう人が多かったように思う。
大谷翔平もそんな存在になろうとしている、というか、なっているかもしれない。
あえてわかりやすく、若い人に伝えるなら、昭和の大谷翔平、令和の長嶋茂雄だろうか。
こう書いたら怒りそうな人がいそうだが、端的に説明するならばの表現である。
長嶋茂雄は引退直後に監督となるも、初年度に最下位となり、第一次政権では日本一になれず、解任されている。
Wikipediaで見る限り、解任までのいきさつは、人が人なら一生恨むような話に思える。
監督の話は数多く、その中には大洋も含まれる。
もしも大洋の監督に長嶋茂雄が就任していたら、長嶋茂雄はここまでの名声を得続けただろうか。
長嶋茂雄のためなら!と大洋が親会社総出で支援しただろうか。
球団の体質が長嶋茂雄によって一掃されただろうか。
このifを考える人はあまりいないが、ちょっとゾッとする。
結果的に断り続け、雪解けを待った長嶋茂雄の判断が素晴らしかったと思う。
長嶋一茂が何を語るかに注目を集める人もいるだろうが、それは無粋である。
晩年、長嶋茂雄の肖像権を巡り、父と息子は対立してしまうが、少し前には母親を亡くしたショックもあり、精神的に追い詰められていた時期もあった。
今回の喪主は現時点で長嶋茂雄の肖像権を管理している長嶋三奈が務めており、感動するような話をしてもらおうと振ったところで、どえらい雰囲気になっても不思議ではない。
長嶋一茂から、世間が期待していないような発言が出たとしても驚かないし、同情も理解もする。
精一杯のコメントだと思うし、これでいいんじゃないだろうか。
テレビで恨みつらみもぶっちゃけてもよさそうなものだが、江角マキコの落書きの件もそうだったように、決してそういうことは言わない。
父も息子も、スター性があるし、その点の振る舞いも似ていると思う。
ミスター語録を含め、親子そろってぶっ飛んだ人に思われやすい。
それだけ惹きつけるものがあるということだ。