違和感の解剖図:勝負事とエンタメの不都合な真実

競馬、ボート、Mリーグからテレビ批評まで。世間に漂う「建前」を剥ぎ取り、その裏に潜む違和感の正体をロジカルに解剖する。単なる感想を超えた、不都合な真実の記録。


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横浜が消化試合になってから勝ち始めるのは、大洋時代からの「伝統芸」である。

春先だけの好調といった伝統芸が鳴りを潜めて久しい昨今、この時期の不可解な強さが戻ってきたことに、ある種の安心感すら覚える。負けが込んで気分を害するよりは、勝つに越したことはないのだから。

一方で、スポニチが放ったある速報が、古くからのファンの間に波紋を広げている。東克樹が自らスクイズで勝利打点を挙げた際、同社が引き合いに出した比較対象が「1990年の中山裕章以来」というものだったからだ。

最近のファンなら「凄い記録だ」と感心するだけだろう。だが、長年このチームを見守ってきた人間は、その名を聞いて「なぜ今、その名前を?」と絶句したはずである。

あえて何をやらかしたかは詳しく書かない。ただ、今この令和の時代に起きていれば、間違いなく永久追放となるレベルの事件であった、とだけ記しておく。

1991年に起きたその顛末は、Wikipedia等を確認すれば察しがつく。情状酌量の余地はない。大洋を解雇され、婚約も新居も失った。その後、2年のブランクを経て中日で復帰を果たすのだが、当時の感覚では「厳しい処分」に見えたかもしれない決断も、現代のコンプライアンスに照らせば、極めて当然の帰結である。

現在、彼はメディアに姿を見せることはなく、仕事の詳細も表には出てこない。いつまでも言われ続ける事件の重さを考えれば、致し方ない部分もあるだろう。私が子供の頃でさえ、その名はどこかアンタッチャブルな雰囲気を纏っていた。

あまりに触れられてこなかったがゆえに、スポニチも無邪気にその名を記録として出したのかもしれない。1991年といえば、もう34年も前の話だ。SNSで盛り上がっている層も、リアルタイムの記憶よりはネットの知識で語っている者が多そうである。

「もし不祥事がなく、横浜に居続けたらどうなっていたか」。1998年の優勝に間に合ったかもしれないし、逆にブランクがないことで選手生命は短かったかもしれない。だが、そんな「if」を考えても生産性はない。

ただ、これだけは言える。当時の球団が下した判断は、間違っていなかった。

かつての大洋・横浜が、その場の成績よりも「社会的な道理」を優先したこと。それを今のファンとして誇らしく思うのだ。消化試合の勝ち星を喜びながら、かつての痛ましい教訓を噛みしめる秋である。


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