違和感の解剖図:勝負事とエンタメの不都合な真実

競馬、ボート、Mリーグからテレビ批評まで。世間に漂う「建前」を剥ぎ取り、その裏に潜む違和感の正体をロジカルに解剖する。単なる感想を超えた、不都合な真実の記録。


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ハラスメントは「究極の甘え」である:生島ヒロシと鬼滅の刃が問うキャリアの生殺与奪


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生島ヒロシに限らないが、ハラスメントをする人間はパワフルで、身内ではない人間にはいい顔をする傾向がある。

だから、「あんなハラスメントをする人とは…」というコメントがどんなハラスメントの事案でも並ぶのは、当然の帰結である。

ハラスメントの決定権は相手の「ご配慮」にある

個人的にハラスメントは相手の匙加減、もっと言えば、相手の「ご配慮」で決まると考えている。

ハラスメントを「愛のムチ」として受け取るかどうかの決定権は、ハラスメントを受けた相手にあるのだ。

時折新聞の見出しなどで、チームの監督が選手に苦言を呈す、喝を入れる時に「愛のムチ」と表現するが、それはマスコミによる「監督への機嫌取り」でしかない。

愛のムチとはとらえず、単なるムチととらえられた時、そのことにどうこう言う権利は誰にもない。

それだけの信頼関係がなかった中でやったのだから、制裁がないだけありがたいと思わないといけないだろう。

明らかなハラスメントでも、これは愛のムチなんだと思わせるだけの信頼関係を築けるかどうか。

それが面倒見の良さだったり、無償の愛だったりにつながる。

それもせず、相手の「ご配慮」に甘えてハラスメントをしていれば、そりゃいつかは制裁を受ける。

むしろ命があるだけマシかもしれないし、生かされている意識を強く持つべきである。

「生殺与奪の権」を相手に委ねる行為

人気漫画『鬼滅の刃』で「生殺与奪の権を他人に握らせるな」というセリフが出てくる。

相手に自分の命運を託すなという強いメッセージだが、これはハラスメントにも言える。

ハラスメントをするということは、相手に「被害者」のポジションと、いつでも暴露してどうぞという権利を与えているようなものだ。

突如としてハラスメントの事実が暴露されても、被害者側からすればその権利を行使しただけに過ぎない。

ハラスメントをした相手に生殺与奪の権を握らせ、いつでも自分の活動をストップしてもいいとお墨付きを与えるようなものだ。

生島ヒロシや龍谷大平安の原田英彦元監督など、最近のハラスメント事案にいつも思うのだが、なんで相手に自分のキャリアの強制停止ボタンを委ねてしまうのだろうか。

本人は相当不本意なキャリアの終わり方になったと感じているはずである。

それは身から出た錆であり、相手の正当な権利の行使だから、情状酌量の余地はない。

原田英彦元監督に至っては、普通にケガを負わせているのだから、今までの実績がどれだけ素晴らしく、教え方が立派であってもすべてが水の泡である。

ハラスメントは他者に対する「究極の甘え」

気持ちはわからんではないし、監督として偉くなり過ぎたかもしれないし、気負いもあったのかもしれない。

でも、ハラスメントは相手にすべてを委ねるような形になる。それは究極の甘えではないのだろうか。

相手に自分のキャリアを終わらせるかどうか、決定権を与えるような行為が甘えだろう。

ハラスメントは他者に対する究極の甘えである。

その発想で物事を考えていくと、とてもじゃないが、他人にハラスメントなんてできない。

生島ヒロシをはじめ、ハラスメントで消えていったひとは、結局どこかで甘えがあった。

昔セクハラをしていましたが、今は改心して贖罪の旅に出ています、みたいな人を見たことがない。

ハラスメントをする人間はいつまでも甘いままなのだ。

たとえ悔い改めても、今までの自分を全否定できる人は少ないので、どこかでマグマが爆発する。

ハラスメントはすぐに結果が出るから、ある種麻薬的な依存になりやすいのである。

だから、ハラスメントの事案に対して、周囲は甘やかしちゃいけない。

本当にその人の指導力を買いたいのであれば、ハラスメント依存からの脱却を真剣に求めるべきだ。

自分のやってきたことを全否定するのは辛いとは思うが、依存からの脱却を目指すには最短ルートである。

その点ではまだ生島ヒロシは最短ルートに近い道を歩んでいるとは言える。


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