違和感の解剖図:勝負事とエンタメの不都合な真実

競馬、ボート、Mリーグからテレビ批評まで。世間に漂う「建前」を剥ぎ取り、その裏に潜む違和感の正体をロジカルに解剖する。単なる感想を超えた、不都合な真実の記録。


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「オールドメディア」を叩く週刊誌の滑稽。SNSがひた隠す「腐っても鯛」の寄生構造とインバウンド飯の空虚


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何かメディアがやらかすと、判で押したように「オールドメディア」と叩き、改革の邪魔をする存在だと切り捨てる風潮がある。

一般人がそれを口にするのは理解できる。だが、週刊誌が新聞やテレビに対して「オールドメディア」と罵声を浴びせているのを見ると、私は強烈な違和感を覚えるのだ。

そもそも、スキャンダルを暴いて悦に浸る報道スタイルそのものが、数十年前から変わらぬ「オールドメディア」の所業ではないか。

1980年代、写真週刊誌が凄惨な現場を平気で掲載していた頃は、確かにそれが「ニューメディア」の狂気だったのかもしれない。しかし、今同じことをやれば袋叩きに遭うだけである。

自分たちもその古臭い枠組みの中にいながら、「私たちは違います」と正義の味方を気取る。その二面性は、新聞やテレビ以上に醜悪であると言わざるを得ない。

結局、新聞やテレビが忖度して言えない「泥臭いネタ」を週刊誌が引き受けるという構図は、昔から変わらぬ持ちつ持たれつの関係に過ぎない。週刊文春ですら、その歴史の延長線上にいる立派なオールドメディアなのである。

昨今は、これらに対抗するものとして「ソーシャルメディア」がもてはやされている。ブログ、SNS、動画プラットフォーム。個人が発信源となれるこれらこそが、現代のニューメディアというわけだ。

だが、その実態はどうだ。TikTokやYouTubeショートでバズった者が王様となり、「真実」よりも「面白さ」が優先される。どれだけ事実を積み重ねても、気に入らない動画は「フェイク」の一言で片付けられる。

この「表面さえ良ければいい」という風潮の最たる例が、Instagramであり、昨今のインバウンド客向けの飲食店である。

最近、YouTuberの「びわ湖くん」の動画を見ているが、豊洲市場の「千客万来」に代表される露骨な価格設定と見た目重視の演出には辟易する。本当に見た目だけだ。味は二の次、三の次である。

びわ湖くんの金銭感覚は、ケチを自称する私にもよくわかる。チェーン店を基準とした彼の評価には同意できない部分もあるが、あの「中身のないものに大金を払わされている違和感」への感性は本物だ。

個々がメディアとなり、雑音が大音量となってオールドメディアを圧倒する時代になった。しかし、皮肉な事実が一つある。

ソーシャルメディアが「ソース」として掲げるネタの多くは、結局のところオールドメディアが発信したものだ。SNSの中に、自ら汗をかき、独自取材や深い分析を行う「プロ」がどれだけいるだろうか。

得のないことに手を出さず、誰かが掘り起こしたネタに寄生して騒ぐだけのソーシャルメディア。そして、その雑音に怯えてすり寄るオールドメディア。

独自取材という「血」を流さない限り、ソーシャルメディアは永遠にオールドメディアの手のひらの上で踊るしかない。

「腐っても鯛」という言葉があるが、腐った鯛(オールドメディア)を食い繋いで生きているのが、今のニューメディアの正体である。


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