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「星野君の二塁打」が1947年、2023年それぞれで起きた出来事として仮定してみる


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自分はひねくれた性格なので、道徳の時間はとにかくひねくれた意見ばかりを出していた。

「そんな清く正しく生きてねぇのによくまぁ聖人のようにペラペラと正論を吐けるよなぁ」とさすがに口にはしなかったが、毎回それは思っている。

星野君の二塁打は小学校の道徳で出てくるらしいが、正直自分は記憶にない。

でも、小学生の時にこれを聞いていたら、おそらく、なんで?と疑問に思うだろう。

 

簡単にあらすじを説明すると、大きな大会の出場がかかった少年野球での大事な試合でのこと。

星野君がいるチームは1点リードで迎えていたものの、最終回に同点に追いつかれ、ウラの攻撃を残すのみ。

先頭バッターが塁に出て、次のバッターは星野君。

強打者ではあったが凡退続き、一発で決めたい思いもあってか監督に直訴するも却下され、バントを指示される。

ちなみにこの監督、大学生とのこと。

バントのつもりで入ったものの、やはり打ちたくなったのか、指示を無視して二塁打を放つ。

その後、犠牲フライでサヨナラ勝ちを決め、大きな大会に出られることになった。

ところが、大学生の監督は自分の指示を無視した星野君を許さず、統制を乱したとして試合出場の禁止を決め、星野君は涙を流してその決定を受け入れたという話。

 

2023年で同じことが起きたとしたら、この監督は100%炎上する。

保護者が黙っていないし、選手たちも怒りを覚えるだろう。

おそらく実名を晒され、SNSで普段の振る舞いを暴露され、結局は監督を降りることになる。

降りるぐらいなら優しいもので、就活すらうまくいかない可能性もある。

そして、星野君に対して、過剰な絶賛が巻き起こるだろう。

悔しさがある中でバットで返したい気持ちが強く、結果的にうまくいった。

ドラマ的には盛り上がるわけで、見ている側も気持ちがいい。

それを、「あれは規則違反なので大きな大会には出させません」となれば、今の時代は猛バッシングだろう。

見ている側の気持ちが相当傷つけられるので、「無数の被害者」が監督への制裁を求める流れになる。

「その覚悟があって、星野君を出させない判断、あなたにはできますか?」と問えばいい。

炎上も表面的なものならいいが、時に実害が出ることもある。

実害が出るかどうかは運次第なので、そこまで許容してまで貫けるのだろうかと色んな人にお題を出してほしい。

道徳の教材として、ここまで論じるのであれば、「星野君の二塁打は2023年だからこそ残すべき話」だと思う。

 

一方で、1947年の日本で考えると、監督の判断は正しいと判断されただろうと感じる。

星野君の二塁打が書かれたのは1947年、戦後間もない時期。

1947年当時の大学生は、今の大学生と違い、相当賢いか、かなり意識が高いとみる。

この時代の監督は、軍の上官的なポジションだから、そのマインドも含まれているかもしれない。

今の自衛隊でもそうだろうが、上官の命令に背くなんて普通はあり得ない。

たとえどんな命令であっても、部下はそれに従わないといけない。

さすがに命の危険が目前に迫ったりすれば別だろうけど。

星野君を出させない判断は、この時代だからこそ許されるし、有無を言わせないように雰囲気を作ることもできる。

実際、「星野君の二塁打」を扱う教科書はいずれも監督の判断が正しく、星野君が間違っているような感じになっているようだ。

学校からすれば、上官や組織に服従する「いい子」になってほしいわけだから、嬉々として監督の正しさを主張するはずだ。

それを目的とするのであれば「星野君の二塁打」は早く消えればいい。

 

道徳には正解がない。

正義は人によって変わるように、道徳もそれに近いものがある。

都合よく人を育てるために道徳の授業があるわけではない。

色んな考え方に触れて考えを深めていくために道徳はある。

いわば思考のトレーニング的な意味合いが強く、正解を押し付ける時点で道徳でも何でもない。

そして、無数の意見があることを示し、異なる意見を学び、理解しようとする姿勢を身につけることが大事なのではないだろうか。

今の道徳の授業がどのように進められているか知らないが、仮に1つの正解を用意しながら授業を進めているのであれば、道徳なんぞ無くなればいい。

もちろん答えがない、答えがないと逃げながら授業をやる先生もアホだが、先生自身が生徒・児童の意見に学び、理解しつつ、色んな意見を提示できる授業であれば道徳の価値はある。

そこまでできる先生は少ないだろう。

自分が高校の時は、ネトウヨみたいな先生が思想を思いっきりぶつけてきたので、それが新鮮だった。

同じ出来事で180度考えが違う、見える世界が異なることの面白さを高校の道徳で学んだ。

だから、道徳の授業自体は自分は好きだったし、楽しかった。

仮に高校時代、星野君の二塁打を題材に出されたら、ものすごく悪態をつきながら嫌なことを言っていたんだろうなと思う。

学校の先生もそこまでやられたら嫌だろうなと今になってようやく思える。

 

星野君の行動、監督の態度など、その正解、不正解はこの場合はどうでもいい。

もし今起きたらどうなるか、当時なぜそれが受け入れられたのかを考えた方がいい。

ちなみに産経新聞の記事における「星野君の二塁打」の論評は、正直わくわくしない。

筆者の今村裕氏にひねくれた意見をぶつけたら真正面から対峙してくれるだろうかという不安すら感じる。

スクールカウンセラーなので、自分なんかよりもっと嫌な奴を見てるだろうから、そんなことはないんだろうが。

異なる意見は積極的に見た方がいい。

そして、反発を覚えながらその考え方、マインドを学ぶと先が何となく見えるようになる。

自分と同じ意見ばかり吸収しても腐っていくだけだと自分は思っている。

道徳はそういう意味では大事なのだが、1つの意見しか提示できないバカが先生をしているのであれば、そんなもんはなくなればいい。

星野君の二塁打は多くの意見が出るという意味で素晴らしい題材。

結局、その題材を生かすも殺すも現場の教師たちの力量であり、この題材ですら生かせないなら二度と道徳の授業はやるべきではないだろう。

 


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