競馬とボート、パチンコパチスロをダラダラやる男のブログ

競馬やボート、パチンコパチスロの話題を中心に、賭け方をよりスマートにしながら、試行錯誤を繰り広げているブログです。


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池添謙一が不満を示したサイン転売問題に思うことと侮蔑について


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あえて最初に個人的な意見を書かせてもらうが、サインをゲットしたら、メルカリでサインを転売しようが何しようが本人の自由であり、法律で規制できる根拠があるのかと思ってしまう。

もちろん池添謙一の苦言は当然だろう。

多くの騎手が、ファンサービスはどんどんしなければならないとばかりに各々がサインを書く。

サインを書かないと、大して勝ててもいないのにどんな身分なのかとか、少し勝ったからといって調子に乗りやがってとか、これだから調整ルームでスマホを使うような奴は違うなとか、色んな嫌味を言われる。

いわば強迫観念でサインを書かざるを得ない状況になっている。

中には、ファンを心底思い、色々なことを犠牲にしてでもサインを書き続ける騎手もいる。

そんなサインがメルカリで転売されていれば、騎手からすれば普通は気分が悪い。

メルカリへの転売問題はサインに限らない。

オードリーのオールナイトニッポンの企画で東京ドームライブを行うが、その際に作った記念ステッカーも当初相当数が転売された。

オードリーの若林正恭はこの転売に対し、ラジオの中で怒りに近い苦言を呈している。

www.oricon.co.jp

今年5月、さらば青春の光の東ブクロが高校時代の文集に書いていた内容を数ページの本にして、五反田で手売りを行い、即日完売したニュースがあった。

YouTubeのシャレ的な企画としては壮大であり、数ページの本を作る労力、コスト的に完売してもトントンな状況で作られた。

そんな東ブクロ、著者名東口宜隆の「笑いについて」もメルカリで高額に転売された。


www.youtube.com

最大限笑いを交えてはいるが、ヤマネマネージャーなどは怒りを滲ませている。

サイン転売に苦言を呈した池添謙一を始め、ステッカー転売に怒りを示したオードリー、本の転売に嘆くさらば青春の光など、その怒りはもっともだ。

 

それでも、犯罪でない限りは転売を含め、自由にやり取りを認めざるを得ないのではないかと個人的には思う。

結局、転売が成立するのは買う側と売る側の需要と供給が一致するからだ。

ポケモンカードもそうだが、たかだかカード1枚で札束が飛び交うのも本来バカげているが、有価証券的な需要と供給がそれぞれあるから成立している。

「犯罪でなければ何をしてもいいのか」という言葉を伝家の宝刀かのように使いたがる人もいるが、残念ながら犯罪でなければ何をしてもいいのが実情ではないだろうか。

人の倫理観、道徳観に訴え始めたら、その論争は不利な立場にいると思った方がいい。

このブログで何度も書いているかもしれないが、できる限りのことは制限を設けず、自由にさせるのが一番いい。

選択肢を多く与えることが大事であり、自分で考えて行動を行うことが民主主義を始め、色々な部分にプラスに働く。

自由には責任が伴うわけで、自由に行動する代わり、責任がとれるのならば転売でも何でもすればいい。

 

池添謙一に関しては今後サインを書くのを辞めると宣言したが、その手も当然あるだろう。

サインを書くか書かないか、これもまた騎手の自由である。

しかし、サインを書かないと宣言することは池添謙一にとっては悪手でしかない。

必ずと言っていいほど、この手の発信をした人物には、調子に乗りやがって!という意見がぶつけられる。

そして、同業者や芸能人など同じようにサインを書きながらも、転売やむなしとか、サインはそれでも書かなければならないと意見を持つ人も一定数存在する。

誰かが意見を発信するたび、池添謙一はその中心に置かれ、議論が行われ、議論の様子を池添謙一に知らせる人もいるだろう。

池添謙一には申し訳ないが、今回の発言は不用意な発信だと感じた。

山﨑康晃が球団のやることに当時のTwitterで苦言を呈し、そこから好調だったチームの歯車が崩れ、本人も調子を落としていった。

池添謙一は8月5日の札幌で入線後に落馬をしている。

あえてそのタイミングで発信しなくてもいいような不用意な発信は、調子を崩すきっかけとなる。

もちろん脈略があり、サイン転売の議論が話題になる中での発信ならば自然な発信と言える。

オードリーの若林正恭がステッカー転売に怒りを示すのもさらば青春の光が本の転売を嘆くのも、自然な流れがあった。

自らのサイン転売を見つけたから怒りのツイートをしたというのも自然といえば自然だが、唐突な印象を受けた。

こうなってしまうと、余計なトラブルを生みかねない。

例えば池添謙一がサインを書かないと決めたとして、ヤジは必ず飛び交うだろう。

そのヤジは本人はもちろん、お客さんも気が悪く、本人が応戦すれば大問題となる。

お客さんがヤジを飛ばした人物に苦言を呈せば、お客さん同士でトラブルが起きるかもしれない。

今回はサインの転売に関する一件だが、競馬界だと種牡馬や功労馬がいる牧場にファンが行って、牧場のお願いを無視して勝手に触ろうとする人の問題もある。

ボートレースでは選手の出待ちの問題も根強く、色んな議論になっている。

サイン転売に限らず、同じようなことは色んな業界で起きており、結局は倫理観・道徳観に訴えかけるしかない。

強気に出れば、調子に乗ってると言われ、人気を落としかねない。

そして、週刊誌に、「関係者によると」と記者の偏見を堂々と書かれ、さも正論のように振る舞われてしまう。

結局、何も言わず、ただただ黙ってサインを書く、転売を黙認する人が「プロ」だと思われる。

 

スポーツ選手やギャンブルに携わる選手、有名人などは一般人からすれば「ペット」のようなものなのだ。

可愛い素振りを見せろ!何も語るな!吠えるな!噛むな!歯向かうな!という一般人から有名人への侮蔑に近い感情が根底にあるように思える。

なぜペットが可愛いかといえば、飼い主に従順で、言葉を発しないからだ。

子どもだってニコニコしてたら可愛いと思われるが、憎たらしい子どもは絶対に好かれない。

サインを書かない人たちに、調子に乗ってるなどと意見をぶつけられるのは、侮蔑に近い感情があるからだろう。

「お前らは簡単にドカンと稼げるんだから少しは汗をかけ」とでも心で思っていそうだ。

どの分野でも同じような事案が生じているということは、人間の根底にある感情の問題と捉えるべきではないだろうか。

だとするならば、制限なくできる限り自由にやらせた方が折り合いがつくように思う。

一定数の人は金を稼げる機会を持つ選手を侮蔑している。

横浜DeNAベイスターズの関根大気がヤジを飛ばしたファンに応戦し、賛否両論を生んでいるが、ファンの意見を色々見てると、侮蔑を感じ取ることができる。

ちなみに、侮蔑の対義語は尊敬である。

今の時代、侮蔑と尊敬は表裏一体、紙一重になっている。

大谷翔平があれだけ稼いでも多くの人が尊敬しているのは、ペットのごとく、何も言わない、自分勝手なことはしないなど、多くの人の理想像の中にいるからだ。

少しでも理想から外れれば、尊敬はあっさりと侮蔑に変わる。

「池添謙一には凱旋門賞でオルフェーヴルに乗ってほしかったし、乗っていたら間違いなく勝っていただろう」と思わせるくらい、ファンの信頼は厚い。

その信頼は尊敬にも通じるが、サインを書かない程度で侮蔑に変わるとすればたまったものではない。

残念ながら、今はそういう時代なのだ。

ちょっとしたことで尊敬と侮蔑を交互に入れ替えるような行為はやめなければならない。

これが面白いとされる時代に生きている以上、自由を貫き、他人の自由を容認するしかないように思う。


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