週刊新潮のスクープの直前、上野裕一郎が謹慎になるという話が出てきた。
てっきり週刊文春にやられたのかと思っていたが、ライバルもさすがに意地を見せた形に。
立教大学は創立150周年だそうだが、その節目に駅伝と野球という二大コンテンツで大コケしてしまった。
部内は恋愛禁止のようで、そのくせ監督は女子部員に手を出すという、麻雀なら跳満、倍満まであるようなことをしている。
不倫は犯罪ではないが、民法上の不法行為である。
不法行為によって損害を受けた側への賠償責任が生じるわけで、この場合は奥さんや大学側ということになるだろう。
だから、謹慎・解任と早々と決まったのは当然と言えば当然のことだ。
不倫は民法上の不法行為なのだから、犯罪ではないとはいえ、喜ばしいことでもない。
学生スポーツの監督やコーチ、体育教師などはなぜ総じて高圧的なのだろうか。
奇跡のレッスンを見ていても、海外の指導者たちはやる気にさせるのが上手だなと感心する。
ラグビー日本代表を世界レベルに引き上げたエディー・ジョーンズ、日本のバスケに大きく貢献しているトム・ホーバス、バレー男子代表を復活させたフィリップ・ブラン。
この3人はいずれも指導中は細かくて厳しく、本当に容赦ないようだが、情がないわけではない。
練習にメリハリがあり、やるべきことがわかりやすく、選手としてもやる気をもって頑張りやすい。
厳しい練習というものを、どうも日本の指導者ははき違えているように感じる。
それは中日ドラゴンズを見れば明らかなのでみなまでは言わないが。
フィリップ・ブランのインタビューを読む限り、ここに日本人の指導者、というよりも、幼い時からのスポーツ指導を根本から見直すべき部分があるように思った。
最初は、監督と意見を交わさない、戦術を説明し選手は頷くだけ、理解しているかと思ったら全然変化しないという状況だったという。
――日本の選手たちは、中学、高校で先生の言うことを素直に聞くように躾られます。
「グッド・コミュニケーションとはなんだと思います? 一方通行でいいわけがありません。お互いがアイデアを交換して、課題を発見し、解決のために動く。それに実力のある選手が、年齢が下だからといって黙っているのも理解できませんでした。実力者は私に対し、チームをよりよくするために要求すべきなのです。なのに若いからといって沈黙する。私には理解できませんでしたよ。それでは仕事の放棄です」
引用元:NumberWeb
日本の学生スポーツを、子供の習い事のところから変えていくのだとすれば、この部分にすべて詰まっている。
個人的に学生スポーツに感じるのは、学生スポーツを通じて学生に「社畜」の心構えを植え付けさせるために存在すると思っている。
上司に従順であり、先輩後輩をきちんとしている、年齢が下だから黙るなど、社畜からすれば100点満点の対応である。
ところが、スポーツにおいて社畜的な根性は何の役にも立たない。
1人1人が独立した大人であり、その中でチームに徹していくことが求められる。
校則などで縛り上げるのは実は子どもを甘えさせるだけで、自立を一切促していない。
そして、縛り上げている側はとにかく自分に甘い。
だから、上野裕一郎みたいに教え子に手を出すような事態を招くのだろう。
大松博文のことを書いたが、みんなが大松博文になろうとし、自分がやられたことを教え子にやろうとしている。
大松博文だからこそできたことであって、憧れはあるにせよ、醜悪な指導者にしかなり得ない。
醜悪な指導者に教えられた教え子はさらに醜悪になっていく。
フィリップ・ブランのような指導者がもっと多くいれば、日本のバレーボールのイメージは変わるだろうし、レベルも上がるだろう。
あと、フィリップ・ブランが特別優れているというより、この考えが世界水準なのだ。
選手から意見が出て、自分と食い違う提案が出されても、対話の中ですり合わせが行われるだろう。
ラグビー日本代表が南アフリカを倒したあの試合、エディー・ジョーンズはペナルティキックで引き分けを目指すべきだと示した。
しかし、選手たちは勝利を狙おうとその意向を無視し、奇跡を起こした。
日本人監督だったらどうだっただろうか。
星野君の二塁打ではないが、場合によっては監督を無視したとしてペナルティがあったかもしれない。
メンツのために監督やコーチをやっている人も多い。
もはや驚かない。
そう思うと、栗山英樹という人はまだコミュニケーションをとろうとする人なのだろう。
わからないやつは殴ってわからせる、当然そんな時代ではない。
それは志が低く、自分に甘いバカが行う薄汚れたドアホの行う鬼畜な所業ではないだろうか。