以前にも転売の記事を書いた際、法律違反でない限り、転売は止められないと書いた。
転売防止の法律を定めたものもあるにはあるが、すべての転売を止められるわけではない。
こうなると、サインなどの転売を阻止するのは、倫理観や道徳観にゆだねられる。
しかし、目先の金を追いかけたい人はたくさんいるし、増税まっしぐらの日本において倫理観や道徳観で目先の金を放棄しろとどの立場で言えるのだろうか。
基本的に、他人に倫理観や道徳観で行動を変えさせようとする時点で無理筋だと思った方がいい。
聞く耳を持たないのが普通であり、なぜ聞く耳を持つと思ったのかとそこに疑問を覚えるくらいだ。
そこで、日本人の倫理観や道徳観の欠如を嘆くのもどうかと思う。
不景気になり、明日生きる金を求める人が増えれば、誰だって必死に目先の金を追いかける。
これはどれだけ倫理観や道徳観があったとしても厳しい。
清貧を求めるのは結構だが、そんなものは、障害者は弱弱しくあれ、学生はフレッシュであれ、女性は女らしくあれ、男性は男らしくあれと言ってるようなものだ。
逞しい障害者は日本にたくさんいるし、そのバイタリティには敬服する。
結局倫理観や道徳観で他人の自由を縛るのは無礼であり、どうしても他人の行動を変えさせたいならお前が金を出せという話になる。
結局、世の中は金であり、金があるから動こうとする。
悲しいと思う人もいるだろうが、不景気なんだからしょうがない。
話せばわかることがなぜわからないのか、たいていの場合は金や利権、人間関係が絡んでいる。
金のために、カラスは白!カラスが黒に見えるやつはバカ!と平気で言えるし、それを否定する気はない。
それが嫌なら景気を良くするために1人1人が行動を起こすしかないわけだが、別にそんな気もない人が多いわけで。
金は出さないが口は出す、そんな人を誰が信じるだろうか。
明治神宮の財政は神宮球場の使用料など外苑の収入によって成り立ち、外苑の敷地全体を明治神宮がすべて維持管理に努め、費用も出すというのはなかなかに大変である。
そんな神宮球場も老朽化が進み、建て替えをしなければならない状況になっている。
色々とお金がかかる中、伊藤忠商事などにお金を出してもらう形で負担を減らしていこうという趣旨のようだ。
金は出しません、口は出します、再開発をしようものなら罵ります、これで事態が解決するなら警察も裁判所もいらない。
森を守りつつ維持費を賄う現実的なアイデアをまず考えればいい。
それもせず、やれ反対だのなんだのと言っても話にならない。
賛成派と反対派のこうしたやり合いをここ10年どれだけ見てきたことか。
ことごとく反対派の人々は金を出さない。
金を出すから辞めてくれぐらいのことを誰かが言わないといけない。
桑田佳祐が外苑再開発を憂う曲を発表したのなら、その売上は全部明治神宮の維持費にしてほしいと言えば、あぁ本気なんだなと思える。
結局憂うだけ憂う、金は出さない、出しても大勢に影響がない、これでは何にもならない。
道徳観や倫理観で他人の行動は変えられない。
変えられるとすれば金である。
物価が上がるも給料が上がらない、そんな時代にとって金がモノを言わせるのは当然ではないだろうか。
そもそも道徳観や倫理観で他人の行動をコントロールできるなんて、そんな楽なことはない。
それをも上回るのが将来の不安、特に金銭的な不安なのだ。
この根底部分を正しく理解しない限りは、どんな議論もかみ合わず、最後はデスマッチになる。
今でもまだ穏やかだが、この問題に限らず、何かしらの議論で大量の血が流れるかもしれない。
昔の日本に戻ってほしいと本気で思う人は、金を出せと政府に要求した方がいい。
江戸時代ではないのだから、いつまでも耐え忍んでいてはどうにもならない。
権力に盾突くことがダサいなんて若者が思い始めたら、もうこの世の終わりである。
若いからこそ盾突いてもある程度許容されるわけで、年取って盾突いてたら大変だ。
年を取ってから穏やかに暮らすために、若いうちは権力に盾突けと自分は思う。
年を取ってから目覚めると面倒くさいぞ、ほら、お前らの両親を見ろ、YouTubeで何かに目覚めてるぞと言ってあげたい。
そういう両親もまた老後が不安で、何かにすがりたいのだろう。
問題を解決するには金が一番だ。
しかも、大盤振る舞いでドカンと金を出せば、誰も何も言わない。
そうやって大きくなってきたんじゃないのかいという話で。
本心は道徳観や倫理観で解決してほしいと思う。
ただそんな時代の積み重ねでここまで来たわけではないこともよくわかっている。