この方を存じ上げなかったが、上記の記事を読むと、ズバリだなぁと感じた。
良かれと思って唐揚げにレモンをかけることに、怒りを覚える人がいるというのは、この手の話では定番と言える。
自分なんかは単純で、「好きにすりゃいいじゃねぇか」という理由でレモンに触りもしない。
「好きにすりゃいいじゃねぇか」の精神は夫婦別姓であったり、LGBTQであったり、基本的にはそのスタンスである。
同じ名字がいい!いや、前の名字のままでいたい!、そんなものは個人の自由であり、個人の自己責任で好きにすればいい。
これにしろ!と決めるのであれば、決めた人間が全責任をとれよと自分は思う。
唐揚げにレモンをかけた時点で、激怒されようが絶賛されようが、その人が100%受け入れればいい。
「良かれと思って」というのは、他責思考の最たるものであり、醜いものである。
「好きにすりゃいいじゃねぇか」の精神だと、お好きにどうぞという感じで相手に任せる。
他人任せと揶揄されるだろうが、自分は1つの折り合いの付け方だと感じている。
指導死の問題も誹謗中傷の問題も、基本的には「良かれと思って」だったり「愛のムチ」だったり、やる側のエクスタシーの面が大きい。
本気で相手のことを思い、体罰なり暴言なりを行ったとすれば、何十年経過しても覚えているものだ。
そして、どれだけの時間が経過したとしても、当人に会った際に謝罪をするのが筋である。
本気で苦言や諫言、説教、叱責をしているのであれば、それが原因で最悪の事態を招いた時、色々な贖罪を長く続けられるはずである。
指導死関連の話で、指導死を招く指導を行った教師が、何かしらの贖罪を行っている話をほぼ聞かない。
むしろ贖罪をしている方のお話があるのなら、強く興味があるし、今後の知見のためにも知りたい。
誹謗中傷をしたことのある方のお話は色々聞くが、何かしら追い込まれて余裕がなくなっているケースが多いように感じる。
指導死を招いた教師も、日常から追い込まれて余裕がないのも大きいように思う。
教師自体も仕事量と給料のバランスが釣り合っていると言い難く、余裕のなさが出やすい。
だから、体育会系上がりの人間ばかりが教師をやろうとする。
誹謗中傷をする人間はそれが正しいと思って言っており、指導死を招く教師も、基本的には相手のためを思って指導はしている。
「良かれと思って」正しいことを言い、「良かれと思って」愛のムチを振るう。
しかし、当人は正義や愛のムチと思っていても、相手からすれば誹謗中傷であり、命を捨てる衝動に駆られるほどの屈辱になってしまう。
これは相手の責任なのだろうか。
だとすれば、正義などを理由にどんなことを言ってもどんなことをやってもやりたい放題になる。
理由を付けて堂々と暴言を吐けるし、お前に立派な人間になってほしいんだ!と愛があるのを装ってブン殴れる。
仮に拒絶されたら、全責任は背負わないといけない。
恨み言も言わず、心の底から後悔し、死ぬまで贖罪を続けるべきだろう。
そこまでの気持ちを背負って、人って正しいことを言いたいものだろうか。
かるーく生きている人ばかりではないだろうか。
だったら、かるーく暴言や暴力を振るわれたら、こちらもかるーく通報すればいい。
そして警察だか裁判所だかで「良かれと思って」と言えばいい。
「良かれと思って」で済めば警察も裁判所もいらない。