自分は常に被害者で、誰かに被害を受けている、自分は全く悪くないというスタンスが、生きる上で一番楽だと思う。
例えば、至極真っ当な指摘、明らかな正論をぶつけたとする。
すると、あくまでも「正当防衛」として、あからさまな加害に及ぶことができる。
正当防衛なのだから、罪の意識は当然芽生えないし、むしろこれでは足りないと思える。
嫁姑問題、夫婦間の問題など、結局どちらがより被害者意識を持っているかの勝負である。
姑からすれば、何の瑕疵もない大変立派な息子を育て上げたのに、嫁が欠陥品だったという被害者意識がある。
だから、半ば消費者ないし生産者の権利として、欠陥品である嫁に正当防衛で対抗しているだけ。
そう姑は思っているが、それが100%正しいケースはまずない。
被害者意識が100%だから成り立つ業であり、自分は足りない人間だと自覚すればするほど、そんなことは思わない。
夫婦間の関係だって、結局被害者意識が90%なのか100%なのかの違いで、権利の主張大会をしているに過ぎない。
人生相談でも、私は被害者です!と言わんばかりに権利を主張している。
もちろん、本当の被害者の方もいるし、すべてがそうとは言わない。
ニッポン放送のテレフォン人生相談を聞いていただければ、言わんとすることはわかっていただけるはずだ。
でも、被害者意識100%で生きることが人生を謳歌するにはいいのかもしれない。
自分の責任だと考えなくていいし、常に自分は守られる立場だから、守る立場の人間が甘えずに考えとけと思っていればいい。
被害者意識100%の人間が、他人に対して「甘えるな!」と言うように思う。
自分はそれが嫌なので、できるだけ被害者意識は持たず、いつでも加害者になり得るのだと思うようにしている。
でも、そのスタンスこそ、被害者意識100%の人間たちに甘えられてしまう。
家族に対しても友人に対しても、基本的に誰に対しても自分はクレームを最大限言わない。
被害者意識100%にとってクレームをつけられることは、宣戦布告でしかない。
10割の過失があったとしても0割の過失にすり替え、むしろ相手に10割の責任を突きつける。
こちらが100で怒ったとしたら、被害者意識100%の人間が300ぐらいで返す。
うちの家族は自分以外みんなこのパターンなので、当人に不満をぶつけないようにしている。
その構図が分かっている人にとって、人間関係の問題は取るに足りないものだと思うはずである。
1人で生きた方が楽だと思うか、相手に全く期待をしないか。
人間はみんな多かれ少なかれ被害者意識を持っている。
根底にあるのは、自分の立ち回りは完璧で、自分には才能があると思っていること。
だから、誰かに虐げられている、被害を受けていると思ってしまう。
悲しいかな、自分の立ち回りが完璧で、才能があると思う人は、誰かの被害とかどうでもいいと思っているはずだ。
つまり、被害者意識は、単なる自分自身への過信や慢心の延長線上にあると思うべきである。
被害者意識を捨ててる人は、自責の考えを持ち、プラスのことをどんどん打ち出そうとしている。
どんな困難が待っていようともそれを乗り越えようと前向きだ。
だからこそ、楽に生きることだけを考えるなら被害者意識100%がいい。
生きること、子孫を次世代につなげることに特化するならその生き方が理にかなっているかもしれない。
追記
パチンコパチスロ、公営競技をやってると、被害者意識が芽生えやすくなる。
すべてを他人のせいにしがちだ。
ただ、結局自分のせいでしかない。
騎手や選手が下手を打つのを見越して買えばいいだけのことだ。
釘が締まっているにしても、そんなことは百も承知だろうに。
自分のことが可愛くなるのはなぜか。
自分しか真剣に愛してくれないからだ。