新球団の誕生は65年ぶり、1958年以来となる。
しかも、1958年の新球団はハヤテ223のようなゼロからの新球団ではない。
パリーグが当時8球団で、1957年、1958年と合併が2回あって今の6球団となった。
だから、ゼロからのスタートという点では3年で姿を消した高橋ユニオンズ以来、実に69年ぶりとなる。
高橋ユニオンズは当時7チームのパリーグにおいて、偶数チームにするため、急遽作られたチームである。
パリーグ7球団から若手をかき集めて作った形だ。
ただ実際に集まったのは、扱いにくかったり戦力外だったりした選手たち。
本拠地は川崎球場、Wikipediaの情報は観客は30人にも満たないと書かれていた。
1954年の新球団誕生イヤー、140試合で21万人しか入っていない。
14試合で21万人でも少ないと感じるが、いくらでも少なすぎる。
当時のプロ野球は東京六大学野球より人気がなく、長嶋茂雄も王貞治も巨人に入団していない。
ちなみに当時の横浜は大洋松竹、洋松だったが、54年は130試合で96敗、55年は130試合で99敗、もしもパリーグだったら消えていた。
パリーグでは当時勝率3割5分を割り込んだら強制解散というルールがあった。
なかなか割り込む球団がなかったために仕方なく高橋ユニオンズが作られた経緯がある。
そんな高橋ユニオンズは1954年140試合で84敗、1955年141試合で98敗。
大洋松竹・洋松の方が非常に弱かった。
1955年に大洋となり、大阪球場から川崎球場へ
つまり、1955年セリーグパリーグの激弱球団、2球団合計271試合197敗の2チームが川崎球場を本拠地にしていた。
川崎球場を象徴するといえばとても失礼だが、これでは人は入らない。
ちなみに横浜は21世紀以降何度もそのルールに触れるほど負けているので、高橋ユニオンズレベル、もしくはそれ以下だったと言える。
高橋ユニオンズは結局3年で姿を消した。
ハヤテ223はファームとはいえ、5球団状態のウエスタンリーグに穴埋め的に入る。
ドラフトは行われず、トライアウトで入団者を決めるようだが、流れは高橋ユニオンズと変わらない。
違うのは地元の期待感や注目度合いだろうが、戦力外になった選手やプロとはどういうものかを知らない若手が大挙集まることになる。
プロ野球の選手とはどういうものか、それをわからせる人が監督にならないといけない。
その点では個人的に強く中畑清を監督に推したい。
ちなみに中畑清の役割はプロ野球における基礎の基礎をフロントや選手に叩き込むだけの役割。
監督しての手腕は全く評価していないし、今の横浜のある種勝負弱さ、甘さを植え付けたような気がしないでもない。
とはいえ、横浜も一時期は高橋ユニオンズレベル、いやそれ以下だったわけだから、どうにかこうにか一般的なプロ野球チームになっている。
それに関しては中畑清が監督をやってくれたことに感謝している。
ハヤテ223はまずプロ野球球団としての体裁を整える必要がある。
そのためには中畑清がゼロから叩き込んでいくのがいいのではないだろうか。
相手はソフトバンク、オリックス、広島、阪神、中日。
中日を除いてどこも強い球団、学ぶことは多いだろう。
初年度は負けてやむなし、その中で前を向いて頑張るには中畑清の役割は大きい。
独立リーグでは甘さが目立つ選手が多いようで、その甘さではNPBでやっていけないぞという叱咤を様々な球団の監督・コーチがしている話をよく目にする。
ハヤテ223は一応NPB球団だが、状況は似ている。
プロの厳しさを叩き込ませるには、現在監督候補となっている人物たちでは不十分だ。
中畑清は高橋ユニオンズ状態だった横浜を一般的なプロ野球球団にさせた実績がある。
現状これ以上の適任はないのではないか。
中畑清はサンデーモーニングに定期的に出ており、サンデーモーニングで取り上げられるはずである。
あのマスターズリーグですら定期的に取り上げられていたのだから。
ハヤテ223を高橋ユニオンズのような状態にさせてはいけない。
それは新潟アルビレックスにも言えるが、こちらは球団運営のノウハウがある。
地元密着で取り組む姿勢などやるべきことは多い。
静岡の皆さんに気に入られる監督という点でも中畑清をおすすめする。
ハヤテ223の関係者の方々はそこまで含めて監督選びをしてほしい。