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「子どもは社会の宝」だとどれだけの人が思っているものなのか


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mainichi.jp

子どもは社会の宝という言葉がある。

いつから「子どもは社会の宝」というフレーズが飛び交うようになったが、いつからだろうか。

誰が言い出したかもわからず、いつから使われ始めたかもしれない「子どもは社会の宝」に振り回されている大人はとても多い。

 

ちなみに2002年の文部科学省の審議会において「社会の宝として子どもを育てる」という項目が登場している。(参照:文部科学省

このフレーズが審議会で出てきた際の始まりには、「家庭教育がうまくいかず、児童虐待や不登校、校内暴力など子どもの問題行動が深刻化している」という内容が書かれている。

要するに、子育ては親だけが行うのではなく、「子どもは社会の宝」として地域を挙げてやっていくべきだということだ。

 

さて、子ども虐待防止の市民運動を展開するオレンジリボン運動のページには、児童虐待に関するデータが色々と掲載されている。

その中で「児童相談所における児童虐待相談対応件数」のグラフがある。

先ほどの「子どもは社会の宝」というフレーズが出た2002年度は23,738件と10年前の1992年度の1,372件と比べれば20倍近くの伸びを見せていた。

この背景で「子どもは社会の宝」だから親だけでなく地域社会でも育てていきましょうという掛け声が出始めるのはある意味当然である。

そして2012年度になると66,701件となり、2021年度は207,660件になる。

これを見る限り、多くの人が「子どもは社会の宝」だと本気では思っていないように感じる。

ちなみに、相談内容の中で最も多かったのが心理的虐待で、これだけで10万件以上存在する。

2010年代になるまで心理的虐待は少なくとも1番の相談内容ではなかったから、時代に伴い変化していると言える。(参照:児童虐待防止全国ネットワーク

 

心理的虐待は、罵声などを浴びせて怖がらせたり、あからさまな無視の態度などをとったりするほか、明らかにバランスを欠いた兄弟姉妹間差別、DVの目撃なども入るという。

昔から「お前は橋の下で拾った子どもだ」という表現を親が子供にするケースがあるが、これも場合によっては心理的虐待と称されても不思議ではない。

子どもが親に対して言う、「産んでくれと頼んでない」もそうだが、どうにかして一撃をくらわしてやろうと刺しにいったフレーズは、どちらもトラウマになる。

これを「思春期あるある」などと捉え、反抗期をどうにか耐え抜くことで、子供らがそれを反省するようになる。

地域の人たちが見守り、それは言っちゃいけないぞと諭していくからいいのであって、親子間でこの応酬が続けば、暴力的な動きにつながってもおかしくない。

また「思春期がなかった」と親御さんが堂々と語るケースもあるが、どちらかといえば、ご両親のどちらかが心理的もしくは肉体的虐待で恐怖政治を行っていて、反抗すると居場所を失うという理由で抑圧されていたケースが多いように思う。

思春期がなかった人間に対し、「子どもは社会の宝」と言ったところで、確かに!と答えるだろうか。

 

先ほどの毎日新聞の記事では、子どもの泣き声に怒鳴るなどの行為をする人は愛着障害を抱えているでのはないかという専門家の声を掲載している。

愛着障害は、幼少期までに愛着形成がうまく行われず、結果としてバランスを欠いた愛情表現になってしまう状態を指す。

愛着障害には反応性愛着障害、脱抑制性対人交流障害の2つがあるが、反応性愛着障害は、苦しいことがあっても人を頼れないなどの傾向がみられるという。

また脱抑制性対人交流障害は何人にも異常に甘えられる人で、なれなれしいなど様々。

後者に関しては、こんな芸能人いるなぁと何人か浮かぶか、その例は出さない。

愛着障害は両親が離婚したり、母親など養育者との別れや無視、ネグレクト、虐待、兄弟での差別、比較、厳しすぎるしつけなどが要因となる。

先ほどの心理的虐待の特徴に当てはまるものもこの中には含まれる。

おそらくこの人たちにも「子どもは社会の宝」と言ったところで逆上させるだけではないだろうか。

 

心理的虐待が起こりやすい環境であれば当然愛着障害を起こす人も増えやすくなり、「子どもは社会の宝」に疑問を持つ人が過半数を占めるようになる。

その時に何が起こるかといえば、子供に対する危害である。

罵声を浴びせるなどはまだ軽く、いずれ何かしらの理由で泣いている子供を殴りつける人が出てくるだろう。

親が泣く子どもを殴りつけるのもなかなかの地獄だが、第三者が殴りつけるのは地獄も地獄である。

しかしながら、「泣いているからといって子どもを殴るとか信じられない!子どもは社会の宝なのに!」と正論を言ったところで、そうだそうだ!となるとは思えない。

少なくとも自分は「社会の宝」として扱われていない、むしろ「社会のゴミ」のように扱われたと主張する人は今後増えるだろう。

そして、これらの主張に愛想を尽かすことは、何もいいことがない。

自分は社会のゴミとして扱われたが、本来社会の宝として子どもを扱うべきだと思える人は一握りである。

「俺だって社会のゴミとして扱われたのだから、お前らもゴミとして扱われろ!」と思う人の方が多いのではないだろうか。

その環境において、「子どもは社会の宝」と言ったところで何も響かないし、逆に反発を生むように感じる。

 

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「子どもは社会の宝なので、国民の皆さんが支えてください」と言ったところで、ふざけんな!と思う人は多いだろう。

もしくは、諦め、諦念の気持ちで、好きにしろよ馬鹿野郎と捨て台詞を吐きながら受け入れる人もいると思う。

多額の奨学金を抱える両親が、もし子供を産めば免除できるという話題もあったが、これに反発が出るのも想像しやすい。

 

本当に「子どもは社会の宝」なのか、その疑問にはっきりと答えられる人はどれくらいいるだろうか。

そして、「社会のゴミ」的に扱われたと感じる人たちをどれだけの人が説得できるだろうか。

既に分断が起きているかもしれないが、いずれその分断が修復不可能なレベルまで達すると思っている。

結局泣きを見るのは、幸せな家庭を築く人たちである。

腹を括った「無敵の人」の、周囲を巻き込んでどうにかしてやろうという底意地の悪い執念は様々な悲劇を生む。

嫉妬だのやっかみだのと軽視したり侮蔑したりしていると、取り返しのつかないことになる。

子どもは社会の宝とされる理屈を、心底理解して賛同する人が1人でも多く増えることを願いたいものだ。


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