先週高血圧の恐怖に怯えていた時、和歌山でとんでもない事件が起きた。
木村隆二容疑者は被選挙権の年齢を下げろ!と言いながら、民主主義の根幹を揺るがすような事件を起こしてどうするのだろうか。
選挙期間中は何をしてもいいわけではない。それは候補者も有権者も。
木村隆二容疑者がこういうことをしてしまう時点で、選挙制度のことをどのように考えていたか、その本気度を疑う。
木村隆二容疑者が25歳になるまでキャリア、経験を重ねて備える手もあったはずだし、ボランティアで参加することもできた。
確かに海外では供託金の額面は低く、全くないところもあるが、事件をきっかけに供託金の議論はされにくくなるだろう。
木村隆二容疑者は何をしたかったのか、そこが非常に疑問であり、結局のところ、自尊心などを取り戻したかったかもしれない。
さて、以前子どもは社会の宝と言われるのはなぜかという記事を書いた。
改めて思うのは社会の宝よりも「社会のゴミ」の扱いである。
自分も社会のゴミだが、弱者男性を中心に社会のゴミ扱いを受ける人は多い。
弱者男性こそ守られるべきだという意見が徐々に出始め、女性であることが「既得権益」のごとく扱われ始めた。
以前書いたColabo問題だが、なんだかんだで活動がしにくい状況になってしまった。
執拗な抵抗に行政が折れてしまったというのが正しいかもしれない。
女性という特権を活用して弱者男性をいいように利用しやがって!という風潮をなんとなく感じる。
若くして高血圧と糖尿病になり、孤独な自分は、弱者男性の代表例だが、そこまで女性を敵視する気になれない。
確かに小学生の時は散々女性を敵視し、異性に負けてたまるかという思いがあったが、そこで男女どうこうというのは終わった。
小学生の時から、女性を既得権益のごとく思っていたのだろうか。
恐らくそうではないだろう。
決して弱者男性のことを守れ!とか、女をあてがえ!とか、そんな話ではない。
弱肉強食と言われればそれまでなので、社会の宝である赤ちゃんに投資をした方がそりゃリターンは大きい。
それに弱者男性を保護するとして、具体的にどんな方法があるのかと言われれば、ないに等しいだろう。
ただ、このままにしておけば、おそらく何らかの理由をつけて、弱者男性は色々な恐怖を与える。
世界では弱者男性に分類される人たちをインセルと呼ぶが、このインセルが問題になっている。
実は日本だけの問題ではないのである。
以前書いた記事で愛着障害の事を書いたが、インセルになる人はやはり愛着障害の傾向があるようだ。
じゃあ愛着障害はどのように改善されるものなのか。
子どもの場合は親とのスキンシップが大事だそうだが、大人でこれをやるのは厳しいものがある。
そのため、自分を認めてくれる環境に入って、対等な関係性をいかに築けるかが重要となるようだ。
弱者男性からの脱却は、まず自分を認めてくれる環境に飛び込むことだろう。
ただ非常に難しいのは、弱者男性はイニシアティブを握りたがるので、自らその環境を壊しがちという点である。
自分は何でもかんでもマウントをとる人間が好きではないし理解できないが、そこに自尊心を求めているのだとすれば、そういうことなのだろう。
自分の方が知識を持っている、勝負ができる、技術もある、だから、俺の方が上なんだと。
でも、強者男性はそれらもあった上で、そんなことは横に置けるのだ。
弱者男性に必要なのは、今までの自分を否定した上で、コミュニケーションを重ねていくことだと思う。
理不尽に愛情を注ぐ存在はそうそうないし、自分を認めてくれる環境は自分で作り出さないといけない。
過去の傷が癒えず、ずっと引きずったままで、負わされた傷をすべてチャラにしてくれないと気が済まない。
それを相手に求めるとなると、その一件で相手が致命的な心の傷を負うかもしれない。
生産性がなく、ただただ空しく、新たな悲劇を別の方面で生み出すことにつながりかねない。
確かにトラウマもあれば傷もある、ずっと癒されないだろう。
でも、どこかで損切りをしない限り、弱者男性の立場からは脱却できないと自分自身もそう思う。
うまく損切りへ誘導させる施策があれば、それをフル活用するしかない。
そのアイデアが生まれれば、より平和な世界が訪れるかもしれない。
現状だと弱者男性は社会への復讐を続けるだろう。
その復讐の損害を、やむを得ないコストとして社会が黙認するならそれはそれでいいと思う。
弱者男性を支援するコストより、社会全体が痛手を負うことでの損害の方が可愛いと思えるのであれば。