お笑い第七世代というワードは霜降り明星のせいやから発せられた言葉であり、2018年12月になされている。
第七世代と言い始めていたら自然と注目されてその世代でまとまるのではないかという考えによるものだ。
その考えはズバリ当たった。
霜降り明星自体がどちらも面白い。
粗品もせいやもそれぞれにパワーがあり、スパッと切れ味良く、腹を括ってお笑いをやっているから、当然といえば当然である。
テレビで「平成生まれのお笑い第7世代」と称されたときは、ハナコ、霜降り明星、ゆりやんレトリィバァ、かが屋、宮下草薙、EXITの6組が紹介された。
なんだかんだでテレビには出ており、一応の存在感はある。
しかしながら、現状の第七世代はあまり評価されず、むしろ嘲笑の対象になりつつある。
なぜかといえば、冠番組や賞レースでの伸び悩みがみられるからだろう。
先ほど出した人たちも含め、基本的には皆さん面白いのだが、いかんせんその上の世代には及ばない。
加えて、誰が第七世代で、誰が第六世代なのかというのも世間は分かっていないし、どうでもいいと思っている。
言ってしまえば、テレビ局側、業界関係者側のノリである。
こうしたノリはテレビなどの既存メディアが強い時には強烈な武器になるが、今は違う。
YouTubeで結果を出した芸人たちがテレビにやってくるケースも増えてきている。
第七世代ではきしたかのが該当し、きしたかのはM-1で準決勝に進出した。
きしたかのはネタを太っている方の岸が作り、何をやるかも気分で決めているとポッドキャストで語っていた記憶がある。
M-1ではそのスタンスだと厳しいだろうと思っていたが、並み居る強豪がいる中で準決勝に残ったということは、方針を変えたのかもしれない。
高野は高野で、鋭いツッコミを見せているが、女芸人に手を出すところや、数々のエピソードがツッコミの破壊力を和らげてくれる。
誰が言ってんだよwwwと思われないといけない。
ダサいのはマイナスだと思うのは就職氷河期あたりの第五世代や第六世代かもしれない。
でも、ダサさは人間味であり、その人間味が安心感などを与えるのだから、ダサいかダサくないかを行動基準にすることはどうだろうか。
それに、ダサいかダサくないかを決めるのは結局その人のカリスマ性である。
矢沢永吉は何をしたってダサくない。
でも、同じことを別の芸人がやればダサくてダサくて仕方なくなるだろう。
何をしたか、何を言ったかではなく、結局誰が言ったかがすべてなのだ。
誰が言ったかで評価される時代なのだから、そこに値しない人間は何をしようが何を言おうが関係ない。
ダサいことを言おうが言わまいがどうでもいい。
一挙手一投足すべてがダサいと思われない人は一握りである。
一握りに入らない人間同士でダサいだのダサくないだの、ちゃんちゃらおかしいのではないだろうか。
もっと言えば、なぜお前は他人の行動にダサいだのダサくないだのと評論できるんだという話である。
何を若者がスマートに生きようとしているのか。
もっとダサく生きろ、後から振り返って赤面するような、黒歴史になるようなことをしてみろ。
それが足らないのではないだろうか。
そんな時代になっていただけると、自分自身のダサすぎる人生を美化できるのだが。