ジャニー喜多川から性加害を受けた件で、「今告発しているのは売れてないやつばかりだ、金目当てでやってるんじゃないか」と知り合いからリアルに聞くと、色々複雑な気持ちになる。
通過儀礼を耐えきれたやつが売れて、耐えきれなかったやつが売れず、今更文句を言われても…と言いたいのだろうか。
こういう人物は仮に周囲の人間が同じ目に遭っても、同様の考えをぶつけるのではないかとか、色々なことを思う。
そりゃ肉親や関係の近い友人が同じ目に遭えば、考えを変えて怒ってくれることもあるかもしれない。
しかし、その怒りは本当に続くだろうかという疑念が生まれる。
あぁこの人には何も言えないなぁと感じてしまった。
かといって、あなたね!間違ってるよ!とは口が裂けても言えないし、言う気もない。
他人の考えを根本から変えることは基本的にできないからだ。
表面的に変えることはできても、それは相手との折り合いを考えて変えているに過ぎない。
どんな権力者から言われたって、心の中では「うるせぇなぁこのバカ」と思いながら、「その通りでございます!」と多くの人が思っている。
議論で他人の意見、考えを変えようなんて傲慢な考えに過ぎない。
目の前の議論さえ勝てればよく、整合性はその時見繕えばいい人なんてゴマンといる。
当人は真剣な討論をしていると思っても、別の人は単なるガス抜きに利用していることだってある。
父親がまさにそんな人で、何時間も口論になった挙句、まるで気持ちよく自慰行為が終わったような顔をされた時、これは無意味だと感じた。
話せばわかるなんてことは幻想でしかない。
話せばわかるとすれば、それは、お互いに折り合いをつけようとする気持ち、自分自身を疑う姿勢などいくつかの要素がないと成立しない。
俺が正しい、お前はバカだ、相手の意見に折り合いをつける気は1ミリもないという人との議論は時間の無駄である。
メリー喜多川もそうだったのかもしれない。
権力を上手く使い、無理を通してきた。
周囲の人たちもその権力を使い、面倒だからとなし崩しに言いなりになるのは、メディアとジャニーズの間柄に限らず、どんな間柄でもあるのではないだろうか。
まして家族、親戚、親族関係ではこんなことは全国でわんさか存在する。
その過程にとっての力関係はあるわけで、それを大なり小なり使っている人は膨大にいる。
事件に大きいも小さいもないとは踊る大捜査線での言葉だが、この手のことにも本来大きいも小さいもない。
あなたは毅然と対応できていますか?自分にできないことを人に求めていませんか?ともしも言われた時、どう返すだろうか。
ジャニーズ問題に限らないが、どんな出来事が起きようと、どんな重大事があろうと、報道にうんざりした人はこのように答えるだろう。
「もっとほかに報道すべきことがある」
この言葉が段々と聞かれ始めてきたということは、そろそろジャニー喜多川の性加害問題も賞味期限なのだろう。
この問題に限らない現象なので、驚きはない。
しかし、根っこから改善されたわけではないので、根はより腐り、致命的なことになるだろう。
それも知ったこっちゃないということか。
結局、その場さえどうにかなればいいと思っている人ばかりなのだ。
ある種能天気で、平和ボケな考えでいられるから、幸せをどうにか見つけて生きられるのかもしれない。
これはどの国でもあるのか、日本だけ、アジアだけなのか。
人間という生き物がそのような仕組みならば、特段何も思わないのだが…