帝王賞はキングズソードが勝った。
本命から堅く買うことができない体質なので、交流重賞はいつも大振りして痛い目を見ることがほとんどだが、今回は獲れた。
大井競馬は馬場読みが非常に重要で、インが強いのか、外差しなのか、非常に重要である。
帝王賞前日を見る限り、外が伸びていた。
長い直線で逃げても捕まるという感じに、キングズソードがいいだろうと思った。
3着のディクテオンは大外をぶん回す形になったが、ペースなども相まって功を奏した。
やっぱり外は伸びたなぁという印象だが、こういうレースでも、たとえ武豊だろうがレーンだろうが、騎乗に対する批判が出る。
そりゃお金を賭けてるからそうなんだが、こんなものは水物であり、プロなんだから百も承知。
またノットゥルノに関しては、交流重賞でも相手が薄いと問題ないが、大舞台ではピンパーなところがある。
そこが狙い目にもなるのだが、昨年のJBCクラシックぐらいのオッズにならないと手を出したいとは思わない。
武豊TVで必ず触れられるだろうからそこまで待つしかない。
騎手の言葉で語られる方が学ぶことが多い。
麻雀でも打牌批判がよくあるが、結局これも騎乗批判と似ていて、その人にとっての見える世界がそうさせたと自分は思う。
その人にだけ見えたものがあった以上、とやかく言っても何の意味もない。
話を聞くと、可能性の低い事柄に対してケアをしようとし、普段思わなかったりやらなかったりしたことをやって、下手なことになるケースが目立つ。
そんなこと起こるわけがないと大多数が思うことに、その人は起こるのではないかと感じた、結果、大多数の意見が正しかった、それが打牌批判や騎乗批判となる。
批判をすることが正しいとか間違いとかではなく、その人には何が見えたのかを知ることである。
結構これが勉強になるというか、その人のレベルを推し量る上で重要と言える。
仕事でミスをした場合もそうだが、その人に見えていたものがあったわけで、そこがわかるとおおよそのレベルや状況がわかる。
これはこうだろうが!と説教したって、結局その人の憂さ晴らしだけで、相手のレベルや傾向をつかむには至らない。
憂さ晴らしも短期的にはスッキリするものの、長期的には痛い目を見続ける。
信じなくてもいい人を信じ続けて大損をかます、信じるべき人を信じずに致命的な状況を生む、そんなところか。
その人は何が見えていたのかを知る作業には、説教も批判も叱責もいらない。
インタビュアーとして相手にヒアリングを重ねていき、素朴な質問を投げかければいい。
返答に対して分析を行い、淡々と評価すればいいのではないか。
上記のことをやらないと、単なる相手のミスをオカズにした自慰行為である。
色んな可能性が浮かぶことは全く悪いことではなく、むしろ素晴らしいことだ。
優秀な人工知能は、無数の可能性から瞬時に可能性が低いものを切って、最も可能性が高いものを見つけて探索していく。
最も可能性が高いものを選んでベストを尽くす。
走塁コーチがホームに回すかどうかも、ランナーに見えるもの、コーチに見えるもの、中継を見てる人に見えるもの、ベンチに見えるもの、球場の人に見えるものがそれぞれ異なるから、色んな意見が出る。
それぞれの人にとっての「最も可能性が高いもの」、その場合にとるべきと考えたベストの行動は結構異なるのではないだろうか。
止めるべきだ、いや、回すべきだ、それぞれの意見があるにして、なぜそう感じたのかを言語化しないと、その人にとって何が見えたのかがわからない。
打牌批判や騎乗批判をする人間は、その言語化が面倒くさい、そこまでして真剣には見ていないと思っている人が多いのではないだろうか。
だとするならば、耳を傾ける必要性も必然性も皆無である。
ムラムラしていいオカズを見つけたのでヌイたぐらいのことで批判しているだけなのだから。
Mリーガーの牌譜検討配信が好まれる理由は当然といえば当然である。
その人は何が見えていたのかを知りたいと思うのが普通だ。
見えていた内容などで信用するかどうかを決める作業は必要である。
その結果、こういう理由でこいつは信じられないと批評する分にはいいと思う。
まぁ、その理由に一貫性がないことが往々にしてあるのが人間の悲しい性ではあるが。