オリンピックが始まったが、なんだかんだで盛り上がるのは東京オリンピックとさほど変わらない。
今回はやたらと誤審という言葉を耳にする。
特に柔道では誤審だのなんだのと言われがちだが、そりゃ誤審と言われるようなルールでやってるんだから当然といえば当然である。
効果や有効がなく、技ありと一本しかポイントにならない。
だから、最悪技ありを回避しようと、防御を行うが、その中で指導が入る。
そもそも何をもって技ありなのか、どうすれば指導を回避できるか、これは審判の匙加減である。
人間の匙加減に任せる以上、誤審だと言われるのは仕方ない。
一本を取らないから悪い、これは昔から言われることだが、今の「JUDO」は一本至上主義とは言い難い。
個人的には、一本至上主義で金メダルを逃しても清々しく負けを認めるのか、それとも金メダルさえ獲れればなんでもいいのかを示した方がいい。
もちろん一本至上主義で金メダルを獲得するのが絶対だろうが、それができれば苦労はしない。
阿部詩がメダルを逃し、視聴者を気の毒にさせるくらいに大号泣した件が話題を集めた。
結果的には兄の阿部一二三が連覇を果たし、妹の分まで頑張ったという美談になったが、阿部詩の号泣に対して東国原英夫が噛みつき、何回も批判している。
いわば東国原英夫の「持論」・「私見」だが、これを報じる意味とは何か。
報道には、「出来事を広く知らせる」という意味がある。
東国原英夫の阿部詩への批判に、「世間に広く知ってもらう」意味があるのだろうか。
仮にあるのだとすれば、単にマスコミの小銭稼ぎという意味しかないように思う。
ヤフーニュースを見ていただきたいが、とにかく芸能人の「持論」や「私見」の記事であふれ返っている。
こたつ記事とも称されるが、とにかくこればかりである。
持論や私見は自由に言えばいいが、別に報道する意味があるのかという話。
阿部詩などへの誹謗中傷が激しいようだが、早い話がマスコミが無邪気に芸能人の「持論」や「私見」を報じるからだろう。
東国原英夫の場合、選挙に出るわけではないものの、「政治家」としての商売を成立させるために、どうしたって前に出ないといけない。
だから、噛みつけるものはどんどん噛みつくという「政治家」を演じる芸人としての振る舞いを見せているに過ぎない。
あと、感情をあれだけ露にする人に対する、根本的な不愉快さはどうしたってある。
特に日本において、あれだけ泣き叫んで称賛を得られるわけがない。
だから、東国原英夫の主張は「誹謗中傷」に走る人には痛快だったと言える。
でも、それだけ泣き叫びたくなるくらいのパワーがなければ金メダルは獲得できない。
抑制的に泣くことが美学なんだと言われたって、知らねぇよという話でもある。
結局、好みの問題だ。
私は目玉焼きに醤油をかけます!と言い出すのと大して変わらない。
でも、醤油かソースかの論争で相手の人格を傷つけてまで論争になることも珍しくない。
今起きてるのはそういうことである。
根底には生活困窮、精神的な病、生い立ちなどなど色々あって、それが賛否を分ける出来事で表に出てきたにすぎない。
だから、誹謗中傷で裁判を起こして賠償などに発展したって、生活困窮などを理由に逃れようとする。
人によっては、不正アクセスを言い出すかもしれない。
でも、これは今回に限ったことではなく、ここ10年ほど言われ続け、実際に誹謗中傷で裁判を起こした人の体験談などで散々出てきた話題である。
おそらく今回の件で裁判を起こしても、少なくとも同じような結末になるだろう。
もはや誹謗中傷関連の出来事は社会の構造的な問題、バグの除去なしには全く解決しないどころか、事態をより悪化させるだけではないだろうか。
もちろん泣き寝入りはとんでもない事件を生み出すだけなので、戦うほかない。
過払い金請求のように、弁護士が誹謗中傷をビジネスにして金を巻き上げる方法を生み出して、誹謗中傷した側に悲劇が続出し、さすがに社会がドン引きし始める事態にまで発展する展開を待つのかどうか。
その前に、バグを除去することが最も平和的な解決につながるのだが、これもまた自分の「持論」・「私見」である。