違和感の解剖図:勝負事とエンタメの不都合な真実

競馬、ボート、Mリーグからテレビ批評まで。世間に漂う「建前」を剥ぎ取り、その裏に潜む違和感の正体をロジカルに解剖する。単なる感想を超えた、不都合な真実の記録。


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ウィル・スミスの平手打ち事件:愛する者を侮辱された時の「理性」の限界


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アカデミー賞の舞台でウィル・スミスが妻を侮辱され、司会者を平手打ちした件は日本でも大きな話題になっている。

昨日も一部その話に触れたが、改めてこの件を考えてみたい。

まずお断りしたいのが、この記事でウィル・スミスの暴力を正当化するわけではない。

どんな理由があろうとも暴力は暴力という「前提」がある。

とはいえ、暴力は絶対に反対、ありえないという潔癖な考えもここでする気はない。

暴力はいけないという前提と感情の混濁

個人的な意見をお伝えすると、暴力はいけないという前提こそ理解するが、その場になったら一線を越えてしまうかもしれない自分がいるということだ。

誰にだって好きなものはあるだろうし、目に入れても痛くないものは必ずある。

そして、命を懸けて大切にしているものだってきっとあるはずだ。

それを自分自身にとって最も屈辱的で、自分の身が引き裂かれるような仕打ちを受けたとしよう。

しかも、相手はさも冗談かのように、ニヤつきながら、ウケを狙ってやっていたとしたらどうだろうか。

暴力反対、どんな理由でも殴ってはいけないとは自分だって思うし、大人として当然である。

だが、実際にその場面に直面した時、理性が働くものだろうかと自分であれば不安になるのだ。

お子さんがいる親御さんがいたとすれば、子供が何かしらのアレルギーの症状を抱え、それに苦しんでいたとする。

そのお子さんを、ウケ狙いで誰かが侮辱し、笑いものにされたら、本当に我慢できるだろうか。

それでも我慢するべきなんだろうが、何かしらの抗議をしたくなるはずだ。

愛するモノが侮辱されれば、誰だって一線を越えそうになる、それが普通である。

「潔癖な思考」を持つ人々の可能性

ところが、芸能人を中心に、潔癖症なのか知らないが、「暴力は絶対に反対」しか言わない人間がいる。

ネットの声を分析してみせて、自分は理性の塊ですと言わんばかりの優等生コメントをしてみせる。

そんな人間が、『新婚さんいらっしゃい』のアシスタントをやるんだから不思議に思うが。

この手の潔癖な思考にはいくつかの可能性がある。

一つ目は、心から愛するものが自分の中に存在しないこと。

二つ目は、考えがあって、潔癖な思考を持つ視聴者からの支持を集めること。

三つ目は、単なるポジショントークであること。

四つ目は、心から愛するものはあるが、他人事として捉え、想像が及んでいないことだ。

一つ目であれば、おそらく早々に化けの皮が剥がれて芸能界から消える可能性がある。

二つ目だと、そこまでクレバーな考えとは言い難いので、どこかで手詰まりを起こすか、反論に逆ギレする残念な人に成り下がる。

三つ目は、単なる自転車操業なので、真綿で首を締めるような状況を自ら誘発する。

四つ目は、バラエティで食っていく人間としてかなり致命的である。

井上咲楽は眉毛を太くした状態で、うまく野心を隠しながら立ちまわってきた感がある。

眉毛を細めて追い出しをかけた感じかもしれないが、たぶん持たないだろう。

怒りが生む「蛮行」と日常の教訓

人間の感情は、0か100か、白か黒かで割り切れるほど単純ではないことぐらい、人間であればだれだってわかるはずだ。

人は自分にないものを他人に求めるとよく言われる。

白か黒かのはっきりとした意見を求めたくなるのは理解する。

しかし、人間はそんなに単純な生き物ではなく、実際は混濁しているのだ。

本当に素直な人間は、理性ではわかっているが、一線を越えてしまうかもしれないと吐露できる。

野心を抱える人間は、本性を隠し、何かしらの演出をしてしまうのだ。

ウィル・スミスの行為は蛮行であり、非難されても仕方ない行為なのは確かだ。

ただ損得を計算できないほどの怒りが生まれてしまうと、人は後先関係なく蛮行をやってしまう。

だとすれば、ウィル・スミスだけの話ではなく、誰にだって起こりうる話なのだ。

その可能性を考えた時、いかなる場面でも暴力は絶対に反対、ありえないとは自分は言いきれない。

今日からできること、それは他人を侮辱しないことであり、信頼関係がない中でイジるのはやめることだろう。

友人などをイジり、激怒されたことがある人は、ウィル・スミスのような平手打ちをいずれ経験するかもしれない。

相手を侮辱をするだけして殴られたら被害者ぶる、あなたはそんなに甘い人間だろうか。


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