元旦に放送されたあちこちオードリーは、色々芯をついた話題が多く、面白かった。
SNSの影響力など、確かに!と思わせるものも多かった。
ただM-1グランプリがどんどん先鋭化していることへの懸念に対しては、個人的には「わからんではないが、避けようがない流れ」なのかなと思う。
何事も競技にすれば先鋭化する。
それはゲームだろうが麻雀だろうが、将棋だろうが同じである。
元々はちょっとした遊びで、わいわいやるものだったが、競技としての要素が入ると、わいわいやりたい人と競技として見てしまう人の温度差が必ず生じる。
やるからには勝たなければ面白くないと考える人もいれば、楽しくやれればそれでいいと思う人もいる。
両者はとにかく相いれないので、組み合わせが悪ければ、どちらもその遊びが嫌いになるか、異なる考えを持つ人間を侮蔑するようになる。
競技としてのお笑いを見たい人にとって、あちこちオードリーでの一連のやり取りは、結構理解できないと感じたのではないか。
かたや、とにかく笑いたい、笑って幸せになりたい人からすれば、首がとれるくらい頷ける内容だったように思う。
M-1の審査員は紆余曲折を経たが、2024年が一番安定した審査だったことは明らかである。
笑い飯の哲夫は令和ロマンに90点をつけたが、あくまでもそれを基準とするためで、つまんなくて90点という感じではなかった。
オードリーの若林はコメントも点数も終始安定しており、とても審査員を避けてた人とは思えない。
2001年からのM-1グランプリの審査員の傾向を見るに、これが1つの最適解だと思ったので、伊集院光の考えは理解こそするが、ちょっと理想論が強めである。
コメントで物議をかもすことが多いのは、落語家、漫談、演出家など異業種の人たちが中心。
物議をかもすのは、それだけ視聴者と当該審査員との考えが乖離している証拠。
松本人志や島田紳助も厳しいコメントを残すことがあるが、こちらはそんなに物議をかもさない。
多少の好みはあるにせよ、審査は基本的に的確で、時に大胆に点数をつけることがある。
それでも、「ちょっと高すぎじゃね?」とならないのは、視聴者からの信頼があるからだ。
漫才師を揃えても、今度は「ベテランに若手の漫才が分かるのか問題」が出てくる。
今回見事に中堅芸人大集合状態となったが、昔はベテランがそこそこ多く、松本人志が最も若手だった。
ベテランに今の若手の漫才がわかるのかという議論は出やすく、今後も中堅どころで固まるだろう。
個人的には、ベテランだから今の笑いについていけないというのは、お笑いのコンテストでそこまで起こりうるのかと疑問に思う。
ベテランまで排除するのはあまりいい傾向ではないと自分も思うが、老害、既得権益、若者いじめなどさまざまなワードが飛び交うSNSにおいて、致し方ない流れだと感じる。
一時期M-1で敗者復活組が活躍する機会が異様に多かった。
サンドウィッチマンもオードリーもそうだったが、ちゃんと審査をしているのかという疑念がなされるぐらい。
昨今、敗者復活組が異様な強さを見せることがなくなった。
その道中でも、しっかりと審査を行っているから、めちゃくちゃ面白い人が落とされるケースが減ったと感じる。
ラパルフェのようなケースもあるが、ラパルフェのケースは特殊だろう。
古典落語があるように、「古典漫才」みたいなものがあってもいいが、それは別の大会でやった方がいいと思うし、色んな解釈で行われるから、面白い発見がありそうだ。
敗者復活戦の審査員も中堅芸人がやるようになり、そのあたりも透明性は出てきた。
競技となる以上、先鋭化は避けられないし、先鋭化する過程で透明性が求められる。
2024年のレコード大賞はMrs. GREEN APPLEが獲得したが、なぜCreepy Nutsではないのかという疑問が噴出した。
一説にはCreepy Nutsは事前収録で、会場に来ていないからなどの意見もあったが、だとすれば、しょうもない理由である。
過去には1億円を出して大賞をもらったなんて話もあり、証拠となる請求書が登場するなど、騒ぎとなった。
レコード大賞がいまだにヤラセと言われるのは、透明性が見られず、プロセスがわからないからだろう。
だから色んな憶測が出てきてしまい、段々と視聴者がドッチラケになっていく。
競技性があって、透明性が伴うから人々は熱狂する。
なんだかよくわからない展開では、人は簡単に興ざめする。
伊集院光が持つ危惧は決して的外れではないし、競技性や透明性が求められる状況を敬遠する人はいるはずである。
ただ、今更時計の針を戻すことはできない。
多様性とは、各々が思う理想を突き詰めて賛同する人が自由に参加して意思表明を行い、各々自由に楽しもうやということだ。
多様性を貫く中で、自由にやってるんだからごちゃごちゃ言うな!という暴力的な部分も出てくる。
多様性を守るとなると、「ごちゃごちゃ言うな!」と、たとえ真っ当な批判であっても一蹴しなければならない。
そういう時代だからこそ、「あなたが思うお笑いを自由に突き詰めて、頑張ってください」という流れになる。
「ごちゃごちゃ言うな!好きにやらせろや!言うなら死ぬまで面倒見てくれや!」という態度の人が今後急増するように思う。
そこまで言われたら、「わかったよ!好きにしろ!馬鹿野郎」と捨て台詞を吐くしかない。
多様性と言う名の鎖国のような気がしないでもないが、真っ当な批判の区別すらつけられないと、鎖国をしたがるのは必然と言える。